無私の日本人

1.穀田屋十三郎

 陸奥国今村(仙台藩領)の篤志家、造り酒屋
   穀田屋コクダヤは屋号で、本名は高平十三郎②

 1766年(明和3)茶師菅原屋篤平治トクヘイジ③と組んで、
   仙台藩に1千という金を貸し付ける、奇想天外な方法を考えつく

   大肝煎キモイリ千坂仲内④に相談し、仲間に入れる(肝煎とは庄屋のこと)

 1768年(明和5)
   十三郎の同族穀田屋十兵衛⑥を仲間に入れる

 1769年(明和6)
   十三郎の本家浅野屋甚内①を仲間に入れる

   早坂屋新四郎⑧を仲間に入れる

 1772年(明和9)
   3度の嘆願書を提出し、許可がおりる
   最後は、5千貫目と書いた嘆願書の内容をを金千両と書き直させられる
     金千領とは当時の相場で5千8百貫となり、追加8百貫が必要になる
     最後の工面をして千両にし、仙台藩に貸し付ける

 1773年(安永2)
   仙台藩は利金をなかなか払わず、
     督促を繰り返し4月になって42両912文が払われる

 その後、毎年その利子を受け取り、宿場のすべての人々に配分した

 奉加帳
   ①甚内   2千貫文
   ②十三郎  550貫文
   ③篤平治  550貫文
   ④千坂   550貫文
   ⑤幾右衛門 550貫文
   ⑥十兵衛  550貫文
   ⑦寿内   550貫文
   ⑧新四郎  300貫文
   ⑨善八   200貫文

 あとがき
   浅野屋は苦しくなるが、質屋業で領民を救う
     藩主の耳に入り、浅野屋の座敷にまで上がり込み、
     「霜夜」、「寒月」、「春風」の酒名を言い残す

   穀田屋は「偉業を人前で語るな」と言い残して十三郎は4年後に亡くなる
     他の店は耐えたが、穀田屋だけは現在までも生き残る

   菅原屋は後継がいなくて跡が続かず

2.中根東里

 出る月を待つべし、散る花を追うことなかれ
 水を飲んで楽しむ者あり、錦を着て売うる者あり

 須藤温という少年に陽明学を語る感動的な場面
   聖人の学は、なにも難しいものではない
   ただ、ひとつのことがわかればよい

   天地万物一体の理がわかれば、それでよい、という
     聖人の学というのは、煎じつめれば、仁の一字につきる
     仁とは天地万物一体の心のことで
     義も礼も智も信も、みな、そのなかに含まれる

 東里の弟は結婚して子をもうけたが、3歳の芳子は死に瀕する
   芳子を東里は、懸命に世話をして育てる

   芳子のことを書き綴った漢文の書物『新瓦』のみが残される
     新瓦とは「新しいおもちゃ」という意味
       この書の場合は「新しい物事への期待や可能性」を表す

     驚くべき漢文の名文
     4歳になった姪に、噛んで含めるように東洋の思想の精髄を教える

     漢文で書かれた教育的な文章であり、
     当時の幼い芳子という少女に向けて、
     人生の教訓や親への孝行の道を説いている

     芳子が成長した際、この文章を読んで、
     自身の幼い頃の苦難、父親の並々ならぬ愛情、
     恩師の深い配慮を理解し、人生の指針とすることを願って書かれた  

 漢文の書物については「中根東里 新瓦」を参照
   幼い芳子を教育することはまだできないが、
   いつか私の書いた文集が読み解けるように修行を積んでくれればよいし、
   もしそれができないのなら教養のある人がこの本をもとに
   芳子を教育してほしい。それがこの本を書く意図である

 経歴:大正3年に発行された
   『下田の栞 P58〜P61』(下田己酉倶楽部発行)による

3.大田垣蓮

 富岡鉄斎を育てた人

 あだ味方 勝つも負くるも 哀れなり 同じ御国の 人と思へば
   西郷に送った蓮月の和歌