古地図・村限図

1.デジタルアーカイブ

 河内長野市立図書館/デジタルアーカイブ
   市内各地に残された歴史資料の中から
   明治初期までに描かれた貴重な絵図等を高精細画像にて公開する

2.絵図・地図(作成年月日)

画番号絵図名(タイトル)和暦西暦
河州錦部都絵図天保8年2月1837年
河州錦部郡市村新田・同小山田村地論絵図元禄3年9月18日1690年
河州錦部郡西代村絵図享保17年8月1732年
西代神社境内図明治6年7月1873年
西代神社粗絵図明治6年7月1873年
金剛寺境内図(江戸時代)
上田村絵図(江戸時代)
河内国高向荘絵図弘安6年3月14日(戦国期)1283年
河州錦郡滝畑村絵図 (写)嘉永4年1851年
10河州錦部郡加賀田郷八幡宮境内図慶長4年9月1599年
11河州錦部郡加賀田領並びに隣接領境界図元禄8年4月18日1695年
12加賀田領並びに隣接領境界図写文久元年11月1861年
13観心寺境内図 (1)(江戸時代)
14観心寺境内図 (2)(江戸時代)
15観心寺境内図 (3)(江戸時代)
16河州錦部郡鬼住村絵図天和3年6月1683年
17小深村領山内之麁絵図 (江戸時代)
18河州錦部郡上原村堰絵図 (江戸時代)
19河州錦部郡長野村絵図天保14年8月1843年
20①東山論所立会絵図①-1(掛け紙あり)、-2 明和8年9月2日
1771年
20②東山論所立会絵図②万延元年9月1860年
21東山論所立会絵図③安永7年6月1778年
22河内国錦部郡市村实地測量地図 (明治前半)
23河内国錦郡郡市村地引全図(地租改正地引絵図)明治12年5月 1879年
24河内国錦郡市村新田全図明治12年3月1879年
25河内国錦部郡市村新田地図明治6年1月 1873年
26−01〜05向野村字限絵図 (5丁綴り) (明治前半)
27河内国錦部郡向野村地引全図 (地券改正地引絵図) 明治13年5月1880年
28熊野觀心十界曼荼羅 (箱書は宝暦12年)1762年
29河内国錦部郡上田村全図 (明治17年) 1884年
30−01〜24上田村地図 (24丁綴り) 明治17年10月 1884年
31−01〜59寺元村地図 (59丁綴り)明治18年1885年
32西代村村限絵図 明治13年5月1880年
33長野村村限図 (1) (明治前半)
34西代村御陣屋起返畑絵図(江戸時代)
35滝畑村村限絵図(明治前半)
36河州錦部郡下里村・泉州大鳥郡上神谷十一ヵ村国境争論絵図元禄14年12月1701年
37河内国錦部郡下里村地図 (村限図)(明治前半)
38涅槃図(室町時代頃)
39城州伏見其外所々出火之図慶応4年正月1868年
40東海道南海道国々大地震大つなみ ( 被害瓦版) 嘉永7年
11月
1854年
41諸国大阪大地震大つなみ末代噺 (被害瓦版) 嘉永7年11月1854年
42寺ヶ池傍示杭木塚絵図 享和3年11月 1803年
43河州錦部郡流谷村絵図(享保6年6月)1721年
44鬼住村・観心寺領境界絵図 天和3年6月15日1683年
45鬼住村一村略絵図明治2年4月1869年
46西代村粗絵図明治6年3月1873年
47九ケ村共有山実測図 明治12年11月1879年
48東山論所立会絵図 ④ 万延元年8月7日 (裏書は明和8年9月の写)1860年
49太井村絵図(明治初期)
50錦部郡太井邨地図 明治12年4月1879年
51錦部郡小深邨地図 (明治前半)
52錦部郡日野村略図写(明治前半)
53長野村村限図 (2) (明治前半)

3.絵図・地図(現在地)

画番号絵図名(タイトル)現在地
河州錦部都絵図市内全図・富田林市南部
河州錦部郡市村新田・同小山田村地論絵図小山田町・荘園町・緑ケ丘北町・緑ケ丘中町・緑ケ丘南町・千代田台一部・北貴望ヶ丘・南貴望ケ丘・あかしあ台・木戸・木戸町・木戸東町・木戸西町・市町・千代田南町一部・楠町東・楠町西・自由ケ丘・桐ケ丘・松ケ丘西町・ 松ヶ丘中町・松ヶ丘東町ほか
河州錦部郡西代村絵図西代町・本多町・錦町・栄町など
西代神社境内図西代町
西代神社粗絵図西代町
金剛寺境内図天野町
上田村絵図上田町
河内国高向荘絵図高向
河州錦郡滝畑村絵図 (写)滝畑
10河州錦部郡加賀田郷八幡宮境内図加賀田
11河州錦部郡加賀田領並びに隣接領境界図加賀田・小塩・高向・日野 一部
12加賀田領並びに隣接領境界図写加賀田・小塩など
13観心寺境内図 (1)寺元
14観心寺境内図 (2)寺元
15観心寺境内図 (3)寺元
16河州錦部郡鬼住村絵図神ガ丘、葛野など
17小深村領山内之麁絵図小深
18河州錦部郡上原村堰絵図上原・日野・野作・小山田・千代田地区など
19河州錦部郡長野村絵図西代町・本多町・錦町・栄町など
20①東山論所立会絵図①-1(掛け紙あり)、-2 長野町・本町・菊水町・末 広町、河合寺・大師町・日東町・本多町・西代町・錦町・栄町・向野町・古野町など
20②東山論所立会絵図②末広町、河合寺・大師町・日東町など
21東山論所立会絵図③末広町、河合寺など
22河内国錦部郡市村实地測量地図 汐の宮町・市町・千代田南町ほか
23河内国錦郡郡市村地引全図(地租改正地引絵図)汐の宮町・市町・千代田南町ほか
24河内国錦郡市村新田全図北貴望ケ丘・南貴望ケ丘・あかしあ台・木戸西町・木戸・木戸町・木戸東町・楠町東・楠町西・自由ヶ丘・桐ケ丘・松ケ丘西町・松ヶ丘中町・松ヶ丘東町ほか
25河内国錦部郡市村新田地図北貴望ケ丘・南貴望ケ丘・あかしあ台・木戸西町・木 戸・木戸町・木戸東町・楠町東・楠町西・自由ヶ丘・桐ケ丘・松ヶ丘西町・松ケ 丘中町・松ヶ丘東町ほか
26−01〜05向野村字限絵図 (5丁綴り) 向野町
27河内国錦部郡向野村地引全図 (地券改正地引絵図) 向野町
28熊野觀心十界曼荼羅高向
29河内国錦部郡上田村全図上田町
30−01〜24上田村地図 (24丁綴り) 上田町
31−01〜59寺元村地図 (59丁綴り)寺元
32西代村村限絵図西代町・本多町・錦町・栄町など
33長野村村限図 (1)西代町・本多町・錦町・栄町など
34西代村御陣屋起返畑絵図本多町・西代町
35滝畑村村限絵図滝畑
36河州錦部郡下里村・泉州大鳥郡上神谷十一ヵ村国境争論絵図下里
37河内国錦部郡下里村地図 (村限図)下里
38涅槃図高向
39城州伏見其外所々出火之図伏見 ~大坂・堺・難波
40東海道南海道国々大地震大つなみ ( 被害瓦版) 近畿
41諸国大阪大地震大つなみ末代噺 (被害瓦版) 近畿
42寺ヶ池傍示杭木塚絵図 小山田町・木戸町
43河州錦部郡流谷村絵図流谷
44鬼住村・観心寺領境界絵図 神ガ丘・寺元・観心寺
45鬼住村一村略絵図神ガ丘
46西代村粗絵図西代町・本多町・錦町・栄町など
47九ケ村共有山実測図日野
48東山論所立会絵図 ④河合寺・末広町・大師町・日東町など
49太井村絵図太井
50錦部郡太井邨地図 太井
51錦部郡小深邨地図 小深
52錦部郡日野村略図写日野
53長野村村限図 (2)長野町本町・末広町など

4.絵図・地図(説明文)

画番号絵図名(タイトル)説明
河州錦部都絵図国絵図作成のため 天保8年(1837)2月
 天保国絵図作成のため作成を命じられる。
 「此度従御公儀様御国絵図被仰付候二付、 大坂御代官池田岩之丞様御役所江奉差上 候写シ」 と表面隅に書かれている。
 ・郡内村々、 高野街道や道、 川筋、 主な寺社 古城跡も描かれ、 川幅や橋の長さも記す。
 ・絵図類 = 同じものを複数作成し、関係者双方で所持・保管する (後日の証明にも)。
 ・河州 (かしゅう)=河内国(かわちのくに)、 ・国絵図としては 「河内国絵図」 に。
河州錦部郡市村新田・同小山田村地論絵図出入相論解決のため 元禄3年(1690) 9月18日
 小山田村・市村新田の間で分水や土地支配等で相論→京都町奉行所へ出訴→絵図提出→
 (裏書)
 「双方立会絵図吟味仕、論所絵図之表少茂相違無御座候、 就夫両方名判如斯御座候、以上」
 市村新田村役人と三好備前守知行所小山田村役人名 (判はナシ 原本は奉行所へ差上、写を両村が所持する)
 ・絵を描いたのは、京師大宮町絵師八右衛門(*当地で描く)
 ・新田開発以降、新池底と交換地や池周辺での境界 分水相論が頻発。 すっともめる。
河州錦部郡西代村絵図村内や対象地域の現状を示すため 享保17年(1732) 8月
 宝永元年(1704) 12月~享保17年7月までの間で、本多家一万石が西代村に陣屋を置い ていました(西代藩)。
 陣屋内には藩庁および藩主・家臣の屋敷が建っていました。しかし、同家は伊勢国神戸へ転封となり、西代村は幕府領に変わります。
 この絵図は、本多家転封の後、幕府代官に西代村の詳細を知らせるために描かれました。陣屋跡地は周りの土塁と3ヶ所の門のみですが、村内各家は住人名・土地の広さ・家の大きさ等記され、北東隅の木戸や高札場、西代神社や寺院等も描かれています。
西代神社境内図明治5年以降に描かれたもの 明治6年7月
 
西代神社粗絵図明治5年以降に描かれたもの 明治6年7月
 
金剛寺境内図村内や対象地域の現状を示すため 江戸時代
 今は無い多くの子院が描かれています。
 元の図は中世の様子で、江戸時代に写されたと考えられます。
 中心伽藍は今と同じです。
上田村絵図村内や対象地域の現状を示すため 江戸時代
 高野街道と沿道の建物→旅籠や商家も並ぶ。多くの溜池も。
河内国高向荘絵図出入相論解決のため 弘安6年(1283)3月14日
 東京大学史料編纂所(編) 『日本荘園絵図影 釈文編三 中世』(令和3年3月)の解説によると、弘治3年(1557/室町後期) 8月の高向村での分水に関する相論において、 分水時間の取り決め決定に関して描かれたものと言う事です。 弘安6年の日付や須屋武親の署名花押については、その前に作成されていた絵図を文字も写したためでしょうか?
 ここには出していませんが、 一緒に巻子にされている弘治3年日付の分水に関する古文書は、 烏帽子形城主であったと伝えられる碓井定純が作成しています。
河州錦郡滝畑村絵図 (写)村内や対象地域の現状を示すため 原本は嘉永4年(1851)
 ダムに沈んだ旧村内の様子がよくわかります。但し南側の山(国境側)は省略が多く縮尺も違うのでご注意を。
10河州錦部郡加賀田郷八幡宮境内図村内や対象地域の現状を示すため 慶長4年(1599)9月
 加賀田神社の宮座(燈正会さん)に伝えられて来た境内図。
 石段下には、今は無い薬師堂や鐘楼、泉福寺や子院が建っています。
11河州錦部郡加賀田領並びに隣接領境界図出入相論解決のため 元禄8年(1695)4月
 加賀田村と隣接する高向村、および小塩村との境界に関する相論の結果、描かれた絵図。
 この時決まった境界部分は、黒い太線で描かれ、間違いない旨双方が押印しています。
 (裏書)
 「表書之絵図、 双方并絵師誓紙之上論所有躰二仕立、判形仕差上申候、以上 百間弐寸五分之積り、論外は見積り 他領境は細二吟味不仕候」
  (100間(=182m)を→2寸5分(7cm575)に縮尺して描く。 要所外は見積もりで描く)
 三村村役人 (旗本甲斐庄領高向村・旗本三好領高向村、加賀田村、小塩村の各庄屋・年寄)の名前に押印がなされています。
12加賀田領並びに隣接領境界図写出入相論解決のため 文久元年(1861)11月
 上記の図を、後年に写したもの。
 特に加賀田村部分のみ写しているのは、当時の 村役人である中谷氏が手持ちとするために写しを作ったから。
 また、建物位置や道・水路や池などは文久元年のものに書き換えられており、 彩色も濃く上記の図より見やすいです。
13観心寺境内図 (1)村内や対象地域の現状を示すため 江戸時代
 江戸時代の観心寺境内には、今は無い多くの子院や建物等が描かれています。
 今とは道が違い、正面の南口門は川に面していたことがわかります。
14観心寺境内図 (2)村内や対象地域の現状を示すため
 同上
15観心寺境内図 (3)村内や対象地域の現状を示すため
 同上
16河州錦部郡鬼住村絵図出入相論解決のため 天和3年(1683)6月
 この絵図に裏書はありませんが、次の44の絵図に同年月15日付の裏書があり、絵図が描かれた経緯がわかります。
 観心寺との山中田畑境界をめぐる相論 (山論)のため、双 方が訴え出たのですが、その時の訴訟資料もしくは解決資料として描かれたと考えられ ます (→詳細次の44へ)。
 大変詳細で、建物等は住人名と縦横の長さが記されており、当時の住人の様子がわかります。
17小深村領山内之麁絵図村内や対象地域の現状を示すため 江戸時代
 山や谷、村内集落、天狗堂もあります。
18河州錦部郡上原村堰絵図村内や対象地域の現状を示すため 江戸時代
 寺ヶ池水路(井堰)を描いた絵図。
 石川の取水口から寺ヶ池、そして新田へ。
 井堰の最上流の水利組合のある上原村が管理のために描かせ手元に置いていた?。
 紙長約550cm。
19河州錦部郡長野村絵図村内や対象地域の現状を示すため 天保14年(1843)8月
 縮尺は正確で現在地図にも合致!
20①東山論所立会絵図①-1(掛け紙あり)、-2 出入相論解決のため 明和8年(1771)9月2日
 (裏書あり)
 「東山」という地名は現在ありませんが、今の河内長野駅から見て東側の末広町・河合寺・大師町あたりに広がっていた芝山が「東山」という地でした。ここは、河合寺村が持つ畑地や溜池など以外は、長野村・西代村・古野村の共有山 (芝山= 肥料のための)で、共同の墓地もありました。
 台帳上長野村領となっていましたので、特に今の末広町辺りで長野村が勝手に新畑を開墾して、他の共有村との相論が度々起こっていました。
 これらの絵図はその訴訟や解決のために描かれ、証拠として奉行所と各村が同じ絵図 を持っていました。山内に河合寺村の人々が江戸時代以前から開発していた畑と溜池や川が谷筋ごとに広がっている様子や、諸越橋、河合寺、虫送火納所、20の絵図には長野村や西代村・古野村の神社、向野村の極楽寺も描かれています。
 20の裏書によると絵師は大坂北谷町の塚本屋利八で、各村の用達も連名しています。
20②東山論所立会絵図②出入相論解決のため 万延元年(1860) 9月
 同上
21東山論所立会絵図③出入相論解決のため 安永7年(1778)6月
 同上
22河内国錦部郡市村实地測量地図 明治12・13年以降に描かれたもの 明治前半
 明治12・13年のものよりは後かと思われる。
 面積記述がないので同17年よりは前のものか。
23河内国錦郡郡市村地引全図(地租改正地引絵図)明治12年以降に描かれたもの 明治12年5月
 
24河内国錦郡市村新田全図明治12年以降に描かれたもの 明治12年(1879)3月
25河内国錦部郡市村新田地図明治5年以降に描かれたもの 明治6年(1873) 1月
 
26−01〜05向野村字限絵図 (5丁綴り) 明治12年以降に描かれたもの 明治前期
 色や描き方からこの頃の作成と判断します。
27河内国錦部郡向野村地引全図 (地券改正地引絵図) 明治12年以降に描かれたもの 明治13年(1880)5月
 
28熊野觀心十界曼荼羅瓦版や仏画など 箱書は宝暦12年(1762)
 旧地福寺什物。
 信仰の対象として描かれたもので、高向地区の地蔵講さんで、昔から現在まで 大切に守り伝えられて来たものです。
29河内国錦部郡上田村全図明治17年以降に描かれたもの 明治17年(1884)
 30の字限絵図を全て合わせて描い た大図。
 この時期のものは土地の種別と面積の記述があります。
30−01〜24上田村地図 (24丁綴り) 明治17年以降に描かれたもの 明治17年(1884)10月
 上田村の字限図 (あざきりず)。
 上田村を20の字で分けて切り、それぞれ精密な測量をして地番を付しています。
31−01〜59寺元村地図 (59丁綴り)明治17年以降に描かれたもの 明治18年(1885)
 寺元村の字限図。
 寺元村を53の字で分けて切り、それぞれ精密な測量をして地番を付しています。
32西代村村限絵図明治12年以降に描かれたもの 明治13年5月
 
33長野村村限図 (1)明治12・13年以降に描かれたもの 明治前半
 一緒に保存されていました。
 33が写しで53が正図に見えますが、よく見ると、地番が違います。
 33の方が古い地番のようです。53の方が今の地番に近いので、後から描かれたと思われます。
34西代村御陣屋起返畑絵図村内や対象地域の現状を示すため 江戸時代
 西代村の本多家(西代藩)陣屋は、村内で一番高い場所にありました。水の便が悪いので、元々畑地でしたが、大部分の土地を藩が借り上げ(一部は購入)て陣屋としました。
 借り上げられた土地は年貢免除となりました。
 本多家の神戸転封後、その土地は元の名請人に返却され、再度畑地として耕作されます。その土地割りと名請人 (耕作者)名、タテ×ヨコの広さと面積が記され、各人名には間違い無い旨の押印がなされています。
35滝畑村村限絵図明治5年以降に描かれたもの 明治前半
 土地に地番はあるが山にはない。
36河州錦部郡下里村・泉州大鳥郡上神谷十一ヵ村国境争論絵図出入相論解決のため 元禄14年(1701)12月21日
 裏書によると、下里村と上神谷11ケ村の間で、山中の境界(国境)をめぐる相論が起き、検使として知久七郎兵衛・平岡四郎左衛門が遣わされ論所検分、吟味の上、京都所司代・同奉行仲裁で境界を定めました。
 その境界について描かれた絵図がこれです。
 確定した境界は太く墨書し、その両端に間違いない旨印が押されています。なおこれも双方村が同じ絵図を持つことになりますので、泉州側にも同様絵図が残っています。
 ここに双方村名が記されていますが、上神谷11ヶ村は、片倉村・逆瀬川村・畑村・富倉村・釜室村・豊田村・小代村・太平寺村・大庭寺村・和田村・田中村と書かれています。
37河内国錦部郡下里村地図 (村限図)明治12.13年以降に描かれたもの 明治前半
 一見29の上田村全図に描き方や色が似ているが、地番のみで土地の種別や面積記述がない。山にも地番があるので、描かれたのは明治12年 13年より後でしょう。
38涅槃図瓦版や仏画など 室町時代頃
 絹本、高向の旧地福寺什物。
 信仰の対象として描かれたもので、高向地区の地蔵講さんで、昔から現在まで 大切に守り伝えられて来たものです。
39城州伏見其外所々出火之図瓦版や仏画など 慶応4年(1868) 正月
 鳥羽伏見戦の火災被害の瓦版。
40東海道南海道国々大地震大つなみ ( 被害瓦版) 瓦版や仏画など 嘉永7年(1854)11月
 被害を伝える瓦版。
41諸国大阪大地震大つなみ末代噺 (被害瓦版) 瓦版や仏画など 嘉永7年(1854) 11月
 被害を伝える瓦版。
42寺ヶ池傍示杭木塚絵図 出入相論解決のため 享和3年(1803)11月
 (裏書)
 「此度寺ヶ池傍示樹木塚再改被仰付候二付、往古之形を以方立会相 図面相違無二付、致印形為取替置候、 以上」
 寺ヶ池は弁天山と水面より下は市村新田 (今は木戸町)、 それより外は小山田村領と定 められていましたが、あまり水面近くで新畑開墾や根掘・芝刈等をおこなうと、池の岸が崩れて大変なことになります。 開整等に関しては小山田村と市村新田で考え方が違い、 度々相論となっていました。 そこで池回りに塚を築き傍示杭を建て、そこから池側は開墾してはいけないことになりました。 その後、その杭木や塚がきちんと元の場所にあるかどうかを両村で確認にて絵図に描いたのがこれです。
43河州錦部郡流谷村絵図村内や対象地域の現状を示すため 享保6年(1721) 6月
 元々の絵図の写?
 山上に第十七経塚が。
44鬼住村・観心寺領境界絵図 出入相論解決のため 天和3年(1683)6月15日
 裏書によると、この年観心寺と鬼住村との間で山中田畑の境界をめぐり起こった山論を、双方が京都の奉行所へ訴え出ました。これに対し、検使を遣し当地で検地をするように命じられました。その後両者の京都での宿(神泉苑町升屋と土屋)が間に入って仲裁し、観心寺が寺領の絵図に境界の線を引いたものを示し、それに間違いないということで、双方が立ちあい、この絵図が作成されました。
 この絵図には観心寺領・鬼住村領の他に、寺元村領も色を変えて書き示されています。
 境目は墨太線で押印あり。
45鬼住村一村略絵図明治5年までに描かれたもの  明治2年(1869)4月
 村域と道、他村境界を示す図
  (裏書)
 「表絵図面之通相違無御座候、 以上」
46西代村粗絵図 明治5年以降に描かれたもの 明治6年3月
 
47九ケ村共有山実測図明治12年以降に描かれたもの 明治12年11月
 日野村山内の共有山を各村立会で描く。
 52でこの場所を比較確定してください。
48東山論所立会絵図 ④出入相論解決のため 万延元年(1860) 8月7日
 「東山」という地名は現在ありませんが、今の河内長野駅から見て東側の末広町・河合寺・大師町あたりに広がっていた芝山が「東山」という地でした。ここは、河合寺村が持つ畑地や溜池など以外は、長野村・西代村・古野村の共有山 (芝山= 肥料のための)で、共同の墓地もありました。
 台帳上長野村領となっていましたので、特に今の末広町辺りで長野村が勝手に新畑を開墾して、他の共有村との相論が度々起こっていました。
 これらの絵図はその訴訟や解決のために描かれ、証拠として奉行所と各村が同じ絵図 を持っていました。山内に河合寺村の人々が江戸時代以前から開発していた畑と溜池や川が谷筋ごとに広がっている様子や、諸越橋、河合寺、虫送火納所、20の絵図には長野村や西代村・古野村の神社、向野村の極楽寺も描かれています。
 20の裏書によると絵師は大坂北谷町の塚本屋利八で、各村の用達も連名しています。
49太井村絵図明治5年以降に描かれたもの 明治初期
 土地に地番はあるが山にはない。
 土地表現がダンゴ形。
50錦部郡太井邨地図 明治12年以降に描かれたもの 明治12年4月
51錦部郡小深邨地図 明治12年以降に描かれたもの 明治前半
 50の大井村分と同時期に作成と考えられる。
52錦部郡日野村略図写明治12年以降に描かれたもの 明治前半
 
53長野村村限図 (2)明治12・13年以降に描かれたもの 明治前半
 一緒に保存されていました。
 33が写しで53が正図に見えますが、よく見ると、地番が違います。
 33の方が古い地番のようです。53の方が今の地番に近いので、後から描かれたと思われます。

絵図・地図が描かれた理由

・江戸時代末まで
  出入相論の解決のため、が多い

・明治時代初期
  地租改正の基礎資料

    明治4年7月:廃藩置県→新政府への権力集中
        租法改革が課題 (全国平等な貢租を!)

    明治5年7月:全国の土地に地券交付開始 (壬申地券)
        小字名から⇒地番付与開始 (完全ではない)

    明治5年  :戸籍制度発足 ( 壬申戸籍)

    明治6年7月28日:地租改正 公布
        地租改正で、土地収益から算定した地価の百分三を地租とする
        地価算定とその前提となる土地丈量が地租改正事業の中心
          その資料としての絵図作成