日本古代史の謎

少し古い原典(1970年代後半)のため見直す必要あり

1.銅鐸

 弥生時代に畿内を中心に現れた青銅器。7世紀の天智朝や8世紀の奈良時代には既に謎の青銅器であった。

 初期は小型で軽く、吊り下げて鳴らす楽器として使っていた。次第に大型化して重くなり、祭器として使われた。

 原料は大陸から輸入した銅剣等を鋳直して銅鐸に作り替えた、そのため畿内には北九州と比べて銅剣・銅矛の出土が少ない。

 石製や土製の鋳型が発見され、製作方法も明らかになった。同じ鋳型で作った銅鐸が各地で出土しており、畿内から各地に配られた過程も明らかになっている。

 埋め戻された銅鐸は、埋まった場所が大概集落を見下ろせる地であることから、村の祭りに使った銅鐸を埋めたものと考えられる。一か所から数個から数十個以上の銅鐸が出土することも少なくない。

 村の共有財産であった銅鐸が一か所に集められた結果であり、小村落が統合されてより大きな小国家を形成していったことを物語る。

 後の大和朝廷やその後継者に伝わらなかったのは、先住民の遺産であったことを想像させる。
 

2.高地性集落

 弥生時代の集落は水稲耕作に便利な平野に多い。弥生中期になると瀬戸内海と大阪湾沿岸や淀川水系で切り立った崖の上や嶮しい山頂に濠をめぐらした集落が点々と築かれるようになる。これらの集落は一時的なものではなく、かなり長期にわたって営まれている。

 嶮しい高地に集落が築かれた理由は防衛のためと考えられる。弥生中期といえば2世紀後半の「倭国大乱」の時期に当たり、高地性集落は城砦的性格を持つ。

 動乱は弥生中期だけではなくかなり長期にわたっていたと思われるので、内海航路の見張台や烽火台ではなかったかという説がある。

 他には畑作集落説もある。

3.前方後方墳

水野祐氏の「二元発祥論」
  円墳系は大和や日向、方墳系は出雲に発祥した

茂木雅博氏の「吉備発祥説」
  出雲最古の松本一号墳(前方後方墳)が吉備最古とされる湯迫の車塚古墳(前方後方墳)と平面図や大きさの点で極めて似ており、出雲は吉備の影響を受けている。
  古式前方後円墳と前方後方墳の大半は、時期的にほとんど同時か前方後方墳が先行するのではないかと考えた。

4.金印

 1784年(天明4)志賀島で石の下から発見された金印は国学勃興期にあった学者たちの関心を集めた。

 戯作説は薄れた
   ・鏨で印刻した印は漢代に多い
   ・印文に「印」字のないものも中国で発見されている
   ・四辺の平均(2.35㎝)は後漢の鋼尺の一寸と一致
   ・蛇鈕のついた金印が中国でも発見される

 印文の解釈
   ・「委奴」をナノワと読み、
     後漢書の「漢の倭の奴の国王」にしたがい
     那珂川を中心とする福岡市付近の
     儺県ナノアガタに比定する説。
   ・「委奴」をイトと読み、
     魏志倭人伝の「伊都国」にしたがい
     糸島郡東南部に比定する説。

 石の下から発見されたので
   ・隠匿説、墳墓説、紛失説、漂着説等がある

5.七支刀

 「宣供供候王」との銘文から四世紀~五世紀の日本と百済との関係性を考える。
  ・百済王が倭王に奉ったとする説
    日本書紀の神功摂政52年の条の七枝刀とし、
    「供供たる候王を宜しくす」と読む
  ・百済王が臣下の倭王に与えたとする説
    銘文が「下行文書」の形式であり、
    「候王」は百済王の下位にあった倭王とする
  ・対等な関係での贈り物とする説
    「供供」を「うやうやしい」と読み、
    上の2つの説をとらない

6.広開土王碑

四世紀末~五世紀初の日朝関係や国内統一に関する一級資料。
碑文の「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年渡[海]破百殘■■新羅以為臣民」の箇所について

幾つかの解釈がある
 ・「耒卯年」は391年とし大和朝廷の朝鮮出兵が行われ、任那日本府が置かれた、とする説
 ・倭が耒卯年に侵入してきたため、高句麗は海を越えてこれを撃破した、とする説
 ・参謀本部酒勾中尉による「渡海破」挿入の、碑文すりかえ説

倭を大和朝廷とするかどうか、任那日本府の成立時期等をどう見るかがポイントとなる。 

7.神武天皇

 実在性は否定されているが、何故この天皇が創出されたかがポイント。
 ・穀霊を意味する語から脱化した神話上の人物
 ・初代の崇神天皇をモデルにして作り出された天皇
 ・皇室が九州から畿内へ東遷した
 ・九州生誕の応神天皇が東遷した史実の反映
 ・磐余彦の奈良盆地平定譚を核に成立する
 ・大嘗祭に重要な役割を果たす氏族の祖先を基に構想された
 ・高句麗の建国伝説との類似点から同一系統とみる 

 「辛酉年は革命の年」というのは讖緯シンイの説を基にして推古朝の史局で考案されたもの。※60年に1回の辛酉の年が続いて、21回目に大革命が起きるという説

8.神功皇后

 実在性、出自、三韓征伐、巫女的性格、皇后という地位、摂政の意味、応神天皇の生母等々から考慮点が多い人物。
(説1)神功皇后の「気長足姫オキナガタラシヒメ」と新羅征伐の事績は7世紀半ばの斉明天皇の「天豐財重日足姬アメヨトヨタカライカシヒタラシヒメ」と死後の新羅討伐(白村江の戦い)とに似せたとみる。
(説2)近江国坂田郡息長地方に伝えられた、水辺で神の子を出産し貴種を養育する高貴な巫女伝説に新羅との交戦が加味されたものとみる。
(説3)初期大和朝廷の対外政策を活躍した実在の皇后、と考え史実とみる。
(説4)息長地方の伝説的な巫女が仲哀天皇の皇后とされ、仲哀の死後に先帝の皇后として69年に及ぶ統治を行った女帝の存在へ発展したとみる。
(説5)日本書紀は暗に神功皇后を卑弥呼に比定している。

9.倭

 従来「倭」を日本列島とそこに住む人々のこととしてきた。仔細に中国や朝鮮の文献をみると、四つの倭がある。
  中国北方の倭
    戦国時代の「山海経」によると「倭は燕に属す」とある。
    内蒙古東南部~遼寧省北部にあたる。
  中国南方の倭
    1世紀末の「論衡」に中国南部に住んでいた。
    周の時代、天下は太平で、倭人がやって来て暢草チョウソウを献じた。とある
  南朝鮮の倭
    「漢書」に記され、「後漢書」には金印を与えられたとある。
    夫、楽浪海中に倭人わじんあり、分かれて百余国と為る
  日本列島の倭

10.倭の五王

 413年~502年の間に度々南朝に遣使して爵号を要求する。
 通説では以下のように幾つかに比定される
   讃・・・応神、仁徳、履中
   珍・・・仁徳、履中、反正
   清・・・允恭
   興・・・安康、木梨軽皇子、市辺押磐皇子
   武・・・雄略
 上記以外には
   武の上表文中の「祖禰」を「祖の禰ミ」と読み珍として仁徳をあてる
   430年に遣使した倭王を五王とは別の王とする
   502年に梁から征東将軍の号を与えられたのは、別の武で清寧または武烈である

 遣使は通商目的ではなく、南朝鮮における権益を南朝に承認してもらい、高句麗と対峙するためである。貰った称号は高句麗や百済より低かった。
 もう一つの目的としては、国内支配の権威づけのためとする。

11.木梨軽太子

 允恭天皇の皇太子。弟が穴穂皇子。二人は皇位継承を巡って争い、負けた軽太子は伊予に流され、穴穂皇子が即位して安康天皇となる。その後、雄略の即位まで骨肉の争いが続く。
 軽太子と穴穂皇子は実在したとする説や元来「軽矢・穴穂矢」にまつわる話をもとに後世作為された可能性が高い。
 軽太子の名代として設定された軽部は狩部の意で狩猟に関係する部であり、矢とは無縁ではなく、さらに軽部の作る矢が軽矢と呼ばれていたと考える。
 穴穂皇子(安康天皇)の宮居のあった石上穴穂あたりで製作された矢が穴穂矢であっただろう。

12.和風諡号

 漢風諡号より古い。
 諡号と実名と尊号を混同しないことが重要。応神のホムタ、安康のアナホは実名。清寧のシラカノワカヤマトネコは在世中の尊号。
 諡号の類似性や共通性を分類したり、人名や神名と比べてみることも重要。
 記と紀で違う2種類の諡号や諡号を奉る慣習の始まり、殯の沿革、百済・新羅・高句麗の諡号選上や王統系譜についても考量する必要がある。

13.王朝交替

 三王朝交替説
   騎馬民族征服王朝説が現れて、崇神・仁徳・継体の三王朝が注目された。
 九州東遷説
   応神が九州から東遷して三輪王朝・磯城王朝を倒した。
 河内王朝説
   河内出身の応神が王朝を打ち立てた。
 継体王朝説
   北方の豪族が皇位を簒奪した。
 葛城王朝説
   欠史9代が実在したする。

 余りにも興亡盛衰に終始して、古代の政治形態や社会発展についての考察が必要。

14.葛城王朝

 二人のハツクニシラススメラミコト。
 通説
   神武・綏靖・安寧・懿徳・孝昭・孝安・孝霊・孝元・ 開化を架空とする
   崇神以降の宮址は三輪山山麓に固まっている
 鳥越説
   神武以降の宮址は葛城山から畝傍山にかけて固まっている
   葛城王朝と名付け崇神王朝によって倒されたとする
     天皇も宮址も実在性に乏しい

15.吉備王国

 備前・備中は造山古墳・作山古墳等の巨大古墳地帯である、かつて大和朝廷と拮抗した独立的大勢力があって、吉備王朝と呼ぶ。
 「紀」応神22年に吉備の大酋長たちが兄弟であったと記されている、吉備の大酋長たちは平等な兄弟関係の系譜によって結合されていたと思われる。強力な世襲王権であったとは思えない。吉備の勢力は内部に矛盾や対立を抱えながら大和朝廷に対して独立性を保持していた、相対的な独立性であって王国であったかどうかは疑わしい。

16.毛野

 上野・下野は毛野と総称され、上毛野君・下毛野君は君といったカバネを称している。
 上毛野氏の祖先伝承は応神朝に荒田別・巫別が百済から王仁を連れてきた、とある。仁徳朝に竹葉瀬と田道が新羅と蝦夷を討った、等とある。大和朝廷の外交・外征への参加が多い、これは記紀編纂時に作為されと思われ、毛野は大化に至るまで独立国として大和朝廷の配下ではなかった、とする説。
 安閑期に上毛野君小熊が朝廷と対立したという「紀」の記事を基に、6世紀にはまだ朝廷による支配が毛野にまで及んでいなかった、とする説。
 外征・外交に関する祖先伝承や「新撰姓氏録」にみられる帰化人との同族関係を評価して、上毛野氏は古くから朝廷の対外政策に参加し帰化人との接触も多く、外来の馬文化を積極的に取り入れた開明的豪族であった、とする説。
 上毛野氏は崇神天皇と紀国造の娘との間に生まれた豊城入彦を始祖としているので、上毛野氏の出身を紀伊に求める、説もある。

17.飛鳥

 古代の飛鳥は現在の高市郡明日香村よりはるかに広く、稲淵山に源を発する飛鳥川の左右にわたって、東は細川山から香久山に連なる丘陵、南は高市村の北部から坂田・稲淵に及ぶ、西は白橿村の東部、北は鴨公村から香久山の西部に及んでいた。
 推古天皇がこの地の豊浦宮に即位してから元明天皇の初年まで、百数十年の間。孝徳・天智の2朝を除き、みな飛鳥の地を都とした。
 記・紀になどの伝承によれば、推古朝以前にも大和朝廷の大王たちはこの地に居を定めたことが有ったらしい。

18.継体天皇

 武烈天皇なきあと、中央に皇位を継ぐべき適当な皇族がいなかったので、応神天皇の五世孫という老齢の男大迹王ヲホドノオオキミが越前から迎えられて河内で即位する。第26代継体天皇である。
 その後、継体天皇は河内・山城を転々として、即位20年目にして大和の磐余に居を定めた。
 応神の五世孫で地方出身であることといい、即位の事情と言い、長期間大和へ入らなかったことといい、継体の登場は幾つかの謎に包まれている。

  皇位の簒奪者とする説
   ・五世孫という出自をを疑問視し、先帝武烈の暴虐記事は継体登場の正当性を納得させるための虚構であるとみて、応神の五世孫と自称する北方の豪族が風雪に乗じて皇位を簒奪し、新王朝を開いたのが継体であるという新説が現れる。

  皇位の簒奪者ではないとする説
   ・「紀」には肝心の応神から継体に至る系譜が記されていない、そこで応神から継体に至る系譜を載せた「上宮記」逸文の用字法を検討して、この系譜が推古朝ごろの信憑性高いものであること
   ・「紀」に系譜が記されていないのは別に系図一巻が付属されていたために省略されたこと
   ・皇統と全然無縁な者が容易に皇位につけるとは考え難いこと

19.両朝並立

 継体・欽明朝の内乱というのは、早く平子・喜田両氏が書紀紀年の乱れや朝鮮関係史料との関係から着目し提言していた、林氏が527年、磐井の乱後の全国的動乱や仏教伝来とのかかわりに視野を拡大して考察し直して提唱された。

 喜田氏の説
   継体天皇の崩御に先立って、欽明天皇を擁立した一族があり、これが継体朝を継いだ安閑・宣化朝と539年ごろまで対立していたというわけである。この両朝分立のもとにあたって、継体・安閑・宣化朝を支持した主勢力は大伴氏、欽明朝を支持した主勢力は蘇我氏といううのが通説である。

 反対の説
   蘇我氏は欽明天皇の側とだけしか婚姻関係を結んでいない。しかし安閑天皇の王宮は勾金橋宮マガリノカナハシノミヤ(今の橿原市金橋)、宣化天皇の王宮は檜隈廬入野宮ヒノクマノイオリノノミヤ(高市郡明日香村檜前)であり、ともに蘇我氏の勢力圏内である。特に安閑天皇はその宮室を勾金橋(蘇我氏の本拠地)に営んだ最初の天皇であった。

20.聖徳太子

 「紀」の推古元年(593年)四月条に厩戸皇子を皇太子とし、
   馬子と共に天皇を補佐する
   立太子したことは疑わしい(皇太子を立てることは大化以降に慣例化)
   6世紀以降の皇位継承候補には大兄制が創出されるが、
     争いが絶えないため大化以降に皇太子制に切り替える
   聖徳太子の時代は過渡期であり皇太子制は確立していない

21.十七条憲法・三経義疏

 憲法の文体が推古朝の金石文と異なるため、偽作とする説は江戸時代からある

 津田によれば
   ①国司や公民といった言葉は大化以前にはない
   ②中央集権的官僚制に酷似しているとして律令制が整った後で制定された

 近年、推古朝では中央集権的官僚制の萌芽が整備されていたと見る説もある

 三経義疏のうちの一つ法華義疏は太子の自筆とされている。
   太子信仰が盛んになった天平時代に朝鮮から輸入されたものとする説

 太子自らが維摩経や法華経を読み聞かせたという故事も
   「魏志 世宗紀」の維摩経を講ずとあることから着想を得たと考える説

22.法隆寺

 7世紀に聖徳太子が創建、天智9年4月に焼け落ちる

 昭和14年に南大門の東から若草伽藍が発見され、再建設説が有力となる
   現法隆寺の伽藍配置とは異なる四天王寺伽藍(塔と金堂が一直線)

   五重塔の心柱下から出土した舎利容器の銀製透彫仏像の円光背から
     白鳳時代(7世紀末~8世紀初頭)の再建と考えられる

 飛鳥様式を伝える現存最古の木造建築であることに変りはない

 現法隆寺について、聖徳太子鎮魂の寺という新説が提唱される
   聖徳太子の後継者山背大兄王とその一家を殺害した天智や中臣鎌足らが、
   太子の怨霊をおそれるあまり鎮魂のために再建したという説

 現法隆寺の伽藍配置に関して、
   金堂と塔を東西に並置させているのは
     金堂に太子を、塔に釈迦の舎利を安置したため
   伴って中門の中央に柱を置き、
     それによってそれぞれの入口の意味をもたせたという説

23.高松塚

 古墳が築造された7世紀末~8世紀初の間に死亡した人物
   璧画の蓋の色(深緑)からかなりの貴人
   人骨と歯の鑑定から筋付たくましい大柄の30歳以上の熟年の男子

 高松塚は蔽原京の朱雀大路を真南に延長した線上にほぼのり
   天武・持統合葬陵や文武陵などがこの線上にあり聖なるラインと呼ばれる

   天武天皇に繋がる皇族説
     被葬者も天武天皇につながる泉族とみて
       当初から天武の皇子忍聖親玉が有力候補にあげられる
       天武の皇子高市皇子、同じく弓削皇子、天武の異母兄弟蚊屋皇子

   貴族高官説
     死亡時大納言で右大臣を追贈された大伴御行が有力視されている
     かなり高齢で没した左大臣石上麻呂という説

 高松塚は帰化人の多い檜前に位置し、壁画が高句麗の古壕の壁画に似ている
   当時の画師は帰化人が多くを占めていたので

   高句麗や百済の亡命王族説
   帰化人有力者とする説

   これらの諸説は以下の理由で有力視されていない
     壁画の蓋の色と大宝令に規定された色とが矛盾する
     すでに他所に墳墓がある
     文献上の明証を欠く
     没年があまりにも高年過ぎる
     事衷誤認に基づく

24.大化の改新

 戦前は皇権回復説、文化運動説、社会革命説等、戦後は律令制の起点とみる政治改革説

 近年、大化改新は蘇我氏討滅のクーデターにすぎず、
   律令制は白村江の敗戦と壬申の乱が契機となって天武朝以後に成立した
   大化改新は『紀』編者の虚構であるとする説

   大化改新詔には大宝律令の条文の影響がみとめられ、
     改新のスローガンであった公地公民制も天武・持統朝に整備されている

  『紀』の史観からの解放という点で虚構論は非常にすぐれたものである
    弱点は史料批判に武断が目立つ

    蘇我氏打倒ののち、ただちに飛鳥から難波へ遷都していることは、
      なんらかの政治改革を指向していたことを物語る

 改新肯定論  
   難波宮趾の発掘の結果、大化の難波遷都は事実であった
     その規模と様式から中国の都城をまねた最初のもの

   私地私民の収公は否定するが、
     改新に王民制から公民制への転換期としての意義を認める

 今後は、大化改新はなぜ行わなければならなかったか、
   どんな改革であったのかを理解するためには
   農民を在地で直接に支配していた国造層の動向などを追求する

25.国譲り神話

 古代出雲の大和朝廷への服属過程をどうみるかということ
   タカミムスヒノミコトとアマテラスオオミカミの命をうけて、
   タケミカヅチ、フツヌシの両神が葦原の中つ国に派遣されるが、
   その中つ国はオオクニヌシノミコトの治める国であり、
   出雲国の伊那佐の小浜が国譲りのフィナーレの場所となった

 服属されるべき葦原の中つ国は記紀神話においては出雲の地であった
   出雲は被治者、高天原は治者としての統一を神話化したとする説
   大和の出雲族の出雲国内への移住を反映したとする説
   出雲東部の意宇オウの勢力が大和朝廷の助力を得て、
     西部の杵築キヅキ勢力を滅ぼし、国造に成長していった史実とする説
   東の大和に対して西の隅の出雲に代表される二元的対立が根底にあって
     その神話的象徴化が国譲りに他ならないとする説
   騎馬民族による征服王朝樹立の過程で、
     外来の天つ神が、日本列島に原住していた国つ神ー倭人を
     出雲において征服念し懐柔したとする説

26.天孫降臨

 天から神や祖先が降臨したという伝承は種々伝えられている
   『出雲国風土記』には
     天乃夫比命アメノフヒノミコトの天下り
     宇夜都弁命ウヤツベノミコト天下り

   『常陸国風土記』には
     普都大神フツノオオカミの天下り

 物部氏の祖神饒速日尊ニギハヤヒノミコの降臨伝承(紀による)
   饒速日尊は天磐船に乗って天下り
   のちに神武天皇の大和平定に際し、衆を率いて帰順する

 『先代旧事本紀』の「天孫木紀」による
   饒速日尊は天神から
   魂振タマフリの神器天璽瑞宝十種アマツシルシミズタカラトクサを授けられ

   32神および5部、さらに25部の物部を従え
   船長・梶取・船子の運転する天磐船に乗って河内国哮峰イカルガダケに下り
   ついで大和の鳥見の白庭山に遷り住み
   長髄彦の妹三炊屋媛を娶って美真手命ウマシマデノミコを生んだが
   饒速日尊は早死にしてまた天に帰っていった

 『先代旧事本紀』は物部氏関係者の手によって9世紀に作られ
   『記紀』にみられぬ独自の記事も含まれており
   饒速日尊の降臨伝承も物部氏が独自に伝えていた祖神伝承である

瓊瓊杵尊ニニギノミコトの降臨神話に匹敵する、あるいはより古い降臨伝承と言える

27.皇祖神

 天照大神は皇祖神であることには間違いないが
   太陽神である、伊勢神宮に祭られている、最高の地位にのぼる
   これらの理由ついては、さまざまな方面から研究されている

 もう一柱の皇祖神としての高皇産霊尊タカミムスビノカミに注目する
   増化三神の一柱で、またの名を高木神タカキノカミという
   この神は天孫降臨、国譲り、神武東征など大事な場面に
   天照大神と並んで種々の命令を下す司令神としてしばしば登場する
   かなり尊貴な神として描かれている

   高皇産霊尊の司令神としての役割に注目し
   さらに又の名高木神の名義を朝鮮の檀君などと同じく
   山上や高い樹木に降臨する神と解釈することによって
   高皇産霊神こそ天皇族に固有な祖神であり
   天照大神は天皇族が朝鮮を経て日本へ侵入する前の先住農耕歳との通婚の結果
   先住民族の文化万般が天皇族のなかに混入しして二元性が生じ
   皇族神についても高皇産霊尊と天照大神という二元性ができたとする説

 伊勢神宮の祭神は太陽神であった高皇産霊尊で
   それが後に新しい太陽神天照大神にとって変わられた説

28.三種の神器

 皇位のしるしである鏡、剣、玉を三種の宝物とする初見は
   『日本書紀』神代巻(天孫降臨章第一の一書)である
   ここでは、ただ天照大神が皇孫に賜ったというふうにのみ示されている

 『記』でも八尺瓊勾玉ヤサカニノマガタマ、八咫鏡ヤタノカガミ・天叢雲剣アメノムラクモノツルギと三種

 『古語拾遺』では鏡・剣の二種神宝とし、「矛、玉自ら従う」といっている

 三種の宝物の観念が発展し一般化するのは、鎌倉時代から南北朝時代にかけて
   発展するのは、三を聖教とする宗教観念と仏教、儒教の影響がいちじるしく、
   秘儀的な解釈等も次々に現われる

   三種の宝物を「三種の神器」とよぷようになったのも南北朝時代以降で、
   争乱を背景とする神国思想の高揚とともに、
  「三種の神器」の存在と意義が強調されるようになった

 三種の神器を、印欧語族のもっ思想体系である三機能分類と対応させて
   解釈する説が、比較神話学者から提出されている

   剣は戦士的軍事的な機能を持ち、鏡はアマテラス自身の御魂代であるから
     主権・祭政の機能を持ち
   玉は稲作を中心とする農業と関係しており
     生産的あるいは豊穣の機能を持つ
   三種の神器は異なる3つの社会的機能を有するとする説

   三種の神器は下記の神ともオーバーラップしている
     戦士的な機能のスサノオ
     主権的な機能のアマテラス
     生産的な機能のオオクニヌシ

29.神の概念

 古代人は森罹万象あらゆるものに心霊を感じて信仰し崇拝してきた
   性格の異なる種々様々な心霊を
   これまた意味の異なる種々様々な言葉で表現した

   『記紀』を見ると、ほとんどの神名の末尾に神字を付してい る
   ヤマツミは山津見神、ククノチは久久能智神とい う具合にである

   『記紀』はあらゆる心霊を神名の末尾に神字を つけることによって
   カミという一語、神という一字で画一的統一的に表現し把握してい る

   性格のこ となるさまざまな神霊を総括的に観念しかつ表現している
     こうした森羅万象を総括的に思惟し表現することはいつ頃からか

     古くは種々様々な神霊を一括して観念することは未発達で
     神名の末尾に神字を付す習慣はなかった

     ところが中国の神思想の影響等によって、
     神名の末尾に画一的に神学を付して
     八百万の神霊を一括して表現できるようになった
       六世紀頃のことである

 あらゆる神霊をカミという一語、神という一字で表現し観念する
   神概念の成立は意外と新しいということである

30.道教伝来

 道教は古代中国に起こった宗教で無病息災を願う民間の呪術に
   神仙思想や無意自然を説く老荘思想が加味されて成立した

 日本でも七世紀に広く行われていたが、仏教の伝来とは趣を異にする

 道教は教団を基礎に置く成立道教
   道観と呼ばれる道場を建て
     それを修業と布教の拠点とする道士がいる
   仏教や儒教のように
     外国の支配者から日本の支配者へと伝えられる

 民衆の中に食い込んだ道教信仰に支えられた民衆道教
   日本に伝来したのは民衆道教 
   渡来してきた民衆から日本の民衆へと伝えられていった

   日本固有の常世思想に少なからぬ影聾を与えた

   『紀』の皇極三年条に駿河の富士川のほとりに住む大生部多オオフベノオオカが
   巫覡らとしめし合わせて、蚕を常世の神として祭れば
   富裕長寿の功徳があると言って村人に奨めたところ、またたく間に大流行
   朝廷は秦河勝に命じて大生部多らを処罰させたという話が載せられている

   これは大化前に巫硯を媒介とする
     道教の布教組織が形成されつつあったことを伝えている

   と同時に、そうした動きを支配者は弾圧しよう としたことを物語っている

 斉明天皇が多武峰に築いた両槻宮フタツキノミヤは道観ではないかという説がある